続・より道しちゃった

イランの素顔
 シャーの時代の白色革命とも呼ばれる西洋文化に重きを置いた改革に対して、1979年に起きたイランのイスラム革命当時、私は英国のTRRLに留学していた。革命直後にイランから英国に来た人々や現在円本で勉強している留学生と交流があることからそれなりに耳から得た情報はあるが、詳細はよくわからない。ましてや、米国との関係が取り沙汰されている折、様々な情報が飛び交っているイランという国は、そして人々は、現在、どんな表情をしているのだろう。
 そこへイランから一通の手紙が舞い込んだ。テヘランで行われる第4回土木工学に関する国際会議」の国際科学者委員会の委員就任の要請である。私の新材料に関する論文発表も含めて出かけることにした。

会議は唄う
 会議は世界一美しい言語と言われるアラビア語のコーランから始まる。私には意味かまったくわからないが、美しい調べを聴いているような幻覚を覚える。その美しさに酔っていたせいか、英語の同時通訳がヘッドフォンで聞けることを見逃してしまった。約30分は続いただろうか、その後次々と人々が檀上にあがって挨拶みたいなことをしている。多分、イスラム教の掟なのだろう、檀上の人か何か言うとフロアからいっせいに短い言葉が発せられるが、よく理解できない。
 横に座っていた人が教えてくれたのだが、文部大臣も祝辞を述べたそうだ。このような大きな国際会議になると、大統領も出てくるそうだが、今回は次期大統領を決める選挙中のせいか、所用があって出られないということであった。いずれにしても、国家のトップクラスが国際会議で挨拶をするのは、優秀な学生を全国から選抜し、諸外国に留学させるほど教育に力を入れているイランならではの思い入れなんだろうか。
 私は同伴した娘とともにディナー・パーティに招待されたが、この時も文部大臣が来られることになったので食事の開始が一時間遅らされた。
 すっかり仲良しになったカリブのジャマイカから出席された美人博士が言うように、ディナ一はとてもすばらしかった。肉を炭火で焼いたケバブ、主食のナンに挟んでヨーグルトを付けて食べるイラン風グリーンサラダのサフジ・ホルダ、煮込みのホレシュ等々、美味しくそして見た目も美しい。

見ると聞くのとは
 外国文化への警戒心から今日では衛星放送や外来語を禁止しているというが、英語の看板は見られないものの、私がペルシャ語を知らない日本人であるせいか、英語で助けてくれる若者は街にたくさんいるし、インターネットも現に私とやり取りをしている学生もいる。飲酒は禁止されているが、愉快なのはホテルのレストランにイラン製ビール?があったことだ。自分の誕生日にこれで祝杯をあげたが、味は?
 「正式な妻を持つ若い男性が不倫した場合、投石による死刑」と何かの本で読んだことがあるが、留学生が言うにはそんなことが執行されたとは一度も聞いたことが無いそうだ。「それよりも悪いのは罪を犯す人でしょう」と言われると何故かドキッとし、口ごもって何も言えない。留学生の話は続く、「二人目の妻を持つのも今の妻が了解しなければできない。了解するわけが無いし、「人を平等に扱わなければならない。そんなこと経済的にも不可能でしよう。男の方が大変です、同情してください」。うーん、うーん。
 女性が家族や夫以外の人前に出る時は、顔だけを出して髪を隠さなければならないし、頭から全身を覆うようなチャドルを着用する。下世話な言い方をすると、いずれも男を誘惑するものなので隠すそうだ。聖なるモスクの中でチャドルで深々と体を隠した女性を見て、「男を惑わす女性の魅力とは何なのか?」と問い続ける私には神の救いはないのであろうか。ところで、博物館で一緒になった眼の美しい某大学の女学生とすっかり打ちとけてしまい、「その長いまつげは本物か?」と聞いたところ、「引っ張ってみて」と妖しい目つきで言われて思わず触ってしまった。胸がドキドキしているところに追い討ちをかけるように、スカーフの前の方からのぞいている金髪は染めたものであるとスカーフをとって打ち明けられて、もう天国。「あらー、だめだ」。
 テヘラン初日は30℃に近い気温で、体全体を隠すようなこの格好は初体験だったので娘も大変だったと思うのだが、帰りの飛行機の中で「何か頭が寂しい」そうだから慣れればどうってことないらしい。

では、慣れる前は?
 まず、遠い国? イランの入国の仕方を紹介させていただきます。到着時間が近くなると、機内で娘がスチュワーデスにスカーフをかぶるように言われ、さらに立って上着がおしりを隠しているかどうかをチェックされた。予期していなかったので焦ってしまったが、ギリギリ大丈夫だった。
 テヘランのメへラバード国際空港に深夜に到着。他の国と同じように、パスポート審査の時、機内で渡される英語の用紙に名前やパスポート番号等を記入して提出した。アラビア文字で書かれた8×15cm位の黄色いもう1枚の用紙は全然わからずそのままにしておいたら入国審査と同じような内容を書くことを求められる。英語の用紙の方は税関でとられるが、これは返してくれた。後でわかったことだが、空港内にある銀行で保有するお金を申告して、この紙に記入してもらうわけだ。周りの人が色々と教えてくれるので御安心を。とにかくイランの人々は親切ですから。 両替はアメリカドルのみ可能で、レートは1年間変わらず1ドルが3,000イラン・リアル(IRI)であるが、市中では300トマンの言い方の方がよく使われる。帰りにこの銀行のスタッフと激しい言葉でやり取りしたが、結局、ここで両替した証明書があっても逆の交換はしてもらえないので両替は少しずつした方が賢明だ。自由に英語で喧嘩が許されることも楽しかった。
 外国人の荷物のチェックはそんなに厳しくなく、それにいきなり話か飛んで恐縮だが、絨毯を買って出国する時も荷物の中身はチェックされるが、書類の書き方その他をきちんと指示してくれる。前日に空港の税関に持ち込まなくてはならないなどと書いてある日本の旅行案内書があるが、当日で大丈夫だ。

日本人は人気がある
 「私、神戸にいたことあります。地震で亡くなった人にお悔やみを」「群馬県で1日8,000円、今10日間で8,000円、日本に行きい」「日本の女性、本当にきれい。うらやましい」「私、友達です、大丈夫です。店やっています。社長、寄りませんか?」「私、放送局でカメラマンやっています。日本のH大学で音学かコンピュータを習いたい。個人的にinvitationしてくれたら、すぐビザがとれます。よろしくお願いします」。街を歩いているとよくこんな言葉をかけられ、「あなたの娘に一目惚れしました。結婚を許してください」と自宅までファックスが追いかけてくるのである。

イマーム・ホメイニ通り( Emam Khomeini)
イマーム・ホメイニ通りから見たバーグ・エメリ門(Bagh-e-Melli Arc)
旧パーラビ通り。市内の所々にある水の流れ

追いかけなくても
 「動物愛護」のキーワードで大きく括られ、「平和の使者」のイメージが固定している鳩はオリンピックの開会式でも飛ばすことを自粛するなど、とても大事にされている鳥だ。他方、大きな通りや公園で子供に悪さをするドバトなどの問題も報じられたことがあった。
 イランの古都・イスファハンにある鳩の塔(Pigeon tower)は鳩をここに集めて住まわせている知恵の塔である。外壁の材料はワラを混ぜた土壁のように見えるのだが、ガイドも材料の名前まではわからなかった。璧の途中に見える白い線は、鳩を狙って壁をよじ登ってくるヘビがここで落ちるように、確かコンクリ-トだったと思うが、工夫されているのだ。いずれにしてもこの塔に鳩を集めることによって動物愛護と糞害の問題を解決するあたり、なかなかのセンスである。皆さん、調査に行きませんか?

イスファハンの鳩の塔

皆さん、セメント練りませんか
 テヘランの南部にある巨大なイマーム・ホメイニ聖廟を訪ねた時の話である。国際会議の議長タバタバエ博士に相談したところ、マイクロバスに運転手と英語を話せる学生を付けてくれた。感謝感激である。国際会議の舞台となった空港近くのシャリフ工科大学から高速道路で飛ばすと25分くらいで巨大な聖廟が姿を現す。35mmのワイドレンズでも全像体がカメラのフレ-ムに入りきらず、さらに両脇には大きなドームを建設中である。タイルを貼った中央のドームに比べて、タイルを張る前のコンクリートがむき出しになっている両脇のドームの姿は醜悪と言えないこともないが、土本や建築の技術者にはむしろその建設のプロセスがわかって興味深い。セメントモルタルの手練りを手伝ってやって職人と友達になってしまった。
 女性と男性の入り口が違ったり、特に女性にはチャドルが要求されたりするが、モスレムでなくてもチャドルを借りてモスクの中に入ることができるなど、きわめて寛容である。
 モスクの外では撮影が許されているので皆でを撮ろうということになった。ポーズをとっている時、いつのまにか、すぐ側で掃除をしていたおじさんも箒を捨てていっしょに並んでしまった。一瞬我々は顔を見合わせたが、断るわけにもいかず、「まあいいじゃないか」でパチリ。の一番右側に立っている帽子をかぶったおじさんが件の人なのだが、このおじさん、なかなか我々の風景に溶け込んでいると思いませんか?

テヘランのイマーム・ホメイニ聖廟

写真をパチリ
 古都・シラーズは2,500年前のペルセポリスの遺跡まで車で約1時間とあって世界中から観光客が集まる場所でもある。トルコやイタリアのようにかつての歴史が直接関わりを持つ人々には我々とは違う感慨があるのかもしれない。ガイドは、ナグシェ・ロスタムの王墓の下に刻まれた石の彫刻の説明で、「ローマの皇帝ワエリアンがササン朝のシャー・プルセウムにひざまずいている」ことを何度も説明していた。
 必ず聞かれることの一つはイランの誇る著名な詩人ハーフェズやサーディのことである。ここには彼らの廟があって中学生か、高校生ぐらいだろうか、先生に引率されたチャドルをまとった女生徒達がカメラを片手に見学している。明らかに異なる日本人の風貌に興味があるのか、はっきりと理由はわからないが、彼女等といっしょに写真を撮ることを要求される。かなりお年を召した女性の中には顔をさらにおおって隠す人もいるが、子供達はとにかく寄ってきてモデルにしたがるのだ。応ずるとヒマワリの種のようなものをくれる。せっかくくれたのだからとお腹の心配をしながら挑戦するが、こちらが1個食べているうちに器用に皮をむいて5個は食べる。日本ではこの味は出ないらしく、イランからの留学生は必ず日本に持ってくるそうだ。あーあ、口に合わなかった、じゃない、おもしろかった。

ナグシェ・ロスタムの王墓の下に刻まれた石の彫刻 。ササン朝のシャー・プルセウムにローマの皇帝ワエリアンがひざまずいている
メッカに向かって祈る人々(トルコのイズミールにて)
イズミール考古学博物館

おもしろかった
 有名なトルコのカッパドキアの奇岩、いや、カッパドキアの石灰岩調査?に備えて夜遅くカイセリ空港に着いた時の話。「オフィシャルガイド、トルコ空港」と書いたカンバンをもった二人連れをはじめ、ホテルや観光案内の売り込みが激しい。親切、安全、快適、…という具合だ。なんとか振り切って何のバスかわからないが、結局バスに乗ったところ町の中心部にあるトルコ空港のパス・ターミナルまで来た。途中、ホテルの話になったところ、前の席にいたとても英語が上手な女性が「Teacher’s Hotel」に行こうと言う。「Teacher’s Hotelとは先生が泊まるホテルでとても安い。自分は英語の先生でここカイセリに実家がある。夫は小学校の先生だ」と言う。ホテルで教師が割引になるのではなく、「先生用宿泊所」みたいだ。「空いているかどうか心配だが、とにかく行こう」と、わざわざ7分ほど歩いて案内してくれた。ああだ、こうだとあって、結局、ツインルームで一泊1,200円で泊まることができた。
 翌日、人なつっこく話しかけてきた二人連れの若い女性。イスダンプール工科大学で建築工学、機械学を学んでいる姉妹で、後で御両親も出てきた。靴の皮をカットするマシーン会社の経営をしていると言う。ということは、「Teacher’s Hotelは学生でも、そしてその両親でも泊まれるということか?アンカラやイズミールにもあり、電話番号を教えてもらいましたので、関係者はどうぞ御利用ください。

カイセリのTeacher’s Hotel

今後ともご利用を
 カイセリからバスでユルギュップへ向かったが、終点のネヴシェヒールまで来てしまった。何人かが「ホテル」「カッパドキア」「タクシ」と言いながら群がってくる。小さなバス・ターミナルでぐずぐずしていると、いきなり「あなたの目的は何ですか?カッパドキアを見学することですか」と日本語で聞いてきた人がいた。怪しいと思って-瞬ずらした目に入ったのが手書きの看板の「Tourist Information」。「しめた、助かった」と思って看板の方へ向かうと、「OK、インフォメーションね」と同じ棟にある自分のオフィスヘ連れ込んで、自分は日本に住んでいたことがあるし、今度新しく旅行会社を始めた者であると説明される。日本人の個人旅行者が持ち歩く「地球の歩き方」の最新版もおいてある。ストリートで習ったという英語も日本語もなかなか上手にしゃべる。
 普通、Tourist Informationとは国や町のオフィシャルな事務所なのだが、ここには誰もいないし、結局、この男と契約することにした。日本の国内でも観光案内所と書いてあったらオフィシャルと思うのが普通で、そこが観光案内をする会社とは思いませんね?人の心を知ったなかなかの男だ。参りました。

人の心をシレ
 ウシュクダラからバスに乗って2時間で黒海に面したシレに着く。6月~8月は海水浴で賑わうと言う。浜育ちの私は海と聞くとすぐ寄り道してしまう癖があり、ここの人々にお茶をごちそうになったり、網の修理を教えてもらったり、ピクニックをしたりと楽しんでしまった。よく言われる「情にもろいトルコ人」の心に触れてしまった。ワーグナーの毒のように私を虜にしてしまった。さらば友よ。

船の修理をする漁師さん達
バーベキューの準備
記念撮影