続々・フェスティバルのことなど

ついに行った
 筆者は4ヵ月の間,床屋に行かず,日本にいた頃,学生に「そんな髪でアスファルトの実験は(火を使うので)できないぞ」と言っていた程の長髪になってしまった.何度もくりかえすように英国人は不器用な人と器用な人がいるので,“カニの床屋のウサギ”になりたくないのである.深刻に悩んだあげく,ついに一大決心をして床屋にでかけた.どうせ行くなら昔からやっている古い所がいいということで,TRRL(Transport and Road Research Laboratory)のスタッフがよく行く最もTRRLに近いCrowthorneの床屋に行った.4人程待っていたので,明日にしようと思い立ちあがったところ,「すぐに終る」という.辛抱強い英国人のことなので,すぐにという意味は2時間位かなと勝手に想像していたところ,何と25分間の待ち時間で順番が回ってきた.1人平均6分間である.子供だったので,シェービングしなかったせいもあるが,それにしても髪を切るのに6分間ですませてしまうとは.恐る恐る椅子に座ったところ,「長髪か短髪か」ときたので「中間にして下さい」と頼んだが,切り方の威勢のいいこと,大きいハサミでザクザクと切る.次に電動バリカンを持ちだしてきたので,手が疲れたのかと思って見ていると,1分間も動かしただろうか,切った毛をブラシで取り払って鏡を頭の後にあて,筆者に何か言っている.2度,3度と開きかえした結果,「これでいいか」と筆者に聞いていることがわかった.これから細かい仕上げがあるかと思い,「いい」と言ったところ,「80ペンス,プリ-ズ」ときた.シェービングを頼むどころではない.口をあけたまま,真っ青になって家に帰り,段ちがいになっている所を家内に切ってもらったが,切ってしまった所はどう仕様もない.黒い髪のカツラもないし,数日間は祈るような気持でTRRLに通ったものである.「ブルース・リーに髪型が似ている」と言われたところで皮肉かお世辞に決まっている.おかげで,ティタイムのポンツーンは負けっぱなしであった.ここで言う「ポンツーン」は浮き桟橋などに使われる箱船Pontoonのことではなく,TRRLで流行っていたカードゲームで,「ブラックジャック」のようなものである。
 髪型のことであるが,冷静になって考えてみると,ソフトな髪の英国人はクシの入れ方で髪型をつくっていく訳で,いや,いい経験をまたしてもさせられた.諸外国から理容技術を学びに来るという英国という国は何と多様で魅力的な国であることか,今度はシェービングに挑戦するつもりである.もちろん ディナーに招かれたり,ロイヤル・オペラハウスに行く少なくとも4日前にしたい.

へイズレメールにて
 昨年で55回目になるHaslemere FestivalはDolmetsch Fourndation(日本のK氏もそのメンバーである)のスポンサーで7月20日から28日の9日間にわたって催された.ディレクターのCarl Dolmetsch氏はバロック音楽の権威者であると同時に,リコーダを初めとする古楽器(Dolmetsch Standardと呼ばれるほど高い評価を受けている)の製造会社の経営に関与し,その多様な交友関係を誇る政治力は相当のものである.演奏曲目,演奏家の陣容もまさにDolmetschファミリィのフェスティバルといった感じを受けたが,それにしても半世紀以上にわたって,このフェスティバルを成功させてきた力量は高く評価されよう.一線を退いた人々が多く住むSurreyのこの田舎町(パブのおやじの話)が最も活気をおびる時だそうで,Dolmdtsch氏が収集した古楽器の公開,有名音楽家による夏季学校等の協賛で行なわれた.
 筆者はHaslemere Hallで行なわれたオープニング・コンサートを皮切りに4回のコンサートを家族と楽しんだが,この世のものと思えない美しい音色をかもし出す古楽器の魅力はフェスティバルにおける演奏につきものの(異様な雰囲気とレコードのようにやり直しがきかないため)ミスタッチをカヴァして余りあるものであった.
 何事も回を重ねるにしたがって形式を重んずるようになるもので,オープニング・コンサートはCarl Dolmetsch氏の挨拶から始まった.マクミラン元首相の未亡人が病気のため出席できないこと,半世紀以上にわたってこのフェスティパルを続けてこられたことへの謝意が述べられ,来賓のJan Wallacelにバトンタッチされた.Wallace氏はテレビでおなじみの売れっ子で,ユーモアあふれる弁舌で楽しい裏話を紹介した.ステージにいる両氏と,今では神格化された存在であるウラディミール・ホロヴィッツ氏の若かりし頃の話などはフェスティバルならではの収穫であった.
 このような小さな町で行われるフェスティバルを見るにつけ考えさせられるのは祭りを失いつつある日本国のことである.1年に1度うまいものを食べたり,いい服を着たり,催し物を楽しんだりする必要がないほど,わが日本国は豊かなのであろうか?バッハのパルチータ(バイオリン曲)の美しさも手伝ってか,わが心は千々に乱れるのである.ちょっとキザですが.

Haslemere Festivalのブローシュ

行儀が悪い?
 Haslemereから近いGuildfordのCivic Hallで行なわれたギャラ・コンサート(1979年7月25日)へと出かける.このホールは近代的な建物であり,内装も日本の多くのそれらとよく似ている.備えつけの椅子はバネやクッションがこわれていて,動くたびにギィギィ音をたてる何ともすわりづらい椅子であるが,ここは日本ではないのだと自分に言い聞かせて我慢する.筆者の前に正装した紳士が1人座っており,何度も座り変えたりしてゴソゴソやっていたが,どうやら水虫をわずらっているらしい.やっと片方の靴を脱いたところで演奏が始まった.もう片方を脱ごうとずい分苦労していたみたいだが,椅子の音を気にしてか,ついにあきらめて,片方は靴下,片方は革靴の足を前の椅子の上に投げだして,テレマンのシンフォニアに合せてリズムをとり始めた.何ともこっけいな格好であるが,そのリズム感の良いこと,脱帽である.筆者の子供達はクスクス笑っていたが,筆者は笑いをこらえるどころか,その紳士の足の動きに合せて演奏陣が動いているような錯覚を覚えたものだ.
 1曲目が終ったところでDolmetsch氏が,「とても喜ばしいニュースがあります.今ここにⅩ氏がおられます」とあいさつをしたところ,くだんの紳士がさっと立ち上って会釈をしたではないか.会場のどよめきをよそに,片方の靴をはいた著名人Ⅹ氏が筆者の前にいたとは,運がよいというか,何というか,いや参った,参った.これが礼儀作法だと言って,それを習ってきたばかりのそんじょそこらのポッと出の紳士とは育ちが違う.おおらかに,楽しく,好きなように動いていてもサマになるこのX氏を見て,「さすが紳士の国,英国だ」と尊敬の念をますます強くするのである.

忠臣蔵万歳
 英国紳士はとりすました紳士というイメージはどこから来るのであろうか?笑いたい時には大声で笑い,ジョークを飛はす英国紳士しか見たことがない筆者にはどうもわかりづらい.Prince of Wales(皇太子)のCharles殿下にしても,「クィーンの馬はたいしたことがない」といった数日後にクィーンの馬が優勝して,“英国伝統の競走馬に対する鑑識力がない”と新開で冷かされたりするなど,結構へマをやっては新聞をにぎわしている.もっとも何かやることに人気が上がり,それを書く新聞がまた売れるというお国柄であるので,余計に目につくのかもしれない.今でも話題になる有名なチャールズ殿下のユーモアを1つ.「クィーンについて一言」の質問に,「世界で一番古い職業」と答えたそうだ.野暮は承知之介で書くが,そして危ない話であるが,QueenはQueanと同語源だそうで,それにしても肝っ玉の太い殿下ではないか.

 夜の7時から7時20分のコベントガーデンはロールスロイスで数珠つなぎになる.Royal Opera Houseにオペラを観(聴き)に来る,いわゆるハイ・ソサイァティの紳士・淑女の乗物である.筆者はここに来るたびに,いつもとりすました紳士をオペラグラスで探すのであるが,未だかつて観たことがない.おかしな場面になった時,まっ先に笑い声が聞こえてくるのは,これらの紳士・淑女がお座りになるボックス席(高い席料をとられる)の方である.一度だけ.どこかの国の人がこの席に座っているのをみたが,肩をいからし,身じろぎもしないでいる様子はかわいそうである.
 筆者の友人の1人にオペラ狂がいて,1ポンドの当日売りの立席を仕入れてきてコベントガーデンに通っているのだ.彼の「日本にオペラがあるのか」の質問は実にきびしい.何のことはない,簡単な筋書きに舞台,オーケストラ,歌手がいればいいことであるが(きわめて高度な訓練を受けなければならないことは十分に承知しているが),数世紀にわたって聴(観)衆や専門家の批評に耐え,評価を受けた作品となると,筆者の好みではあるが,日本国では“忠臣蔵”が,まず,あげられると思うがいかがであろうか?どなたか,おやりになりませんか?“オペラ忠臣蔵”を世界の檜舞台で観たいのが筆者の夢であるが….

遠山の金さんもいた
 仲間と飲みに出ると,各国の歌を聴くのか楽しみの1つになる.国歌でしめくくりの場合が多いが,君が代を英語で唄っても迫力がない.何か日本的な歌をと探すのだが,ビターやスコッチではどうも浮かんで来ない.先日,TRRLの某氏の家族をディナーに招いて日本酒を飲んだ時,そう遠山の金さんを思い出した.水戸黄門とともに日本にいた頃の筆者の好きなテレビ番組であり,主題歌“すきま風”は札幌の歓楽街ススキノのカラオケでずい分と訓練をした経験があるので,こいつはいけそうだ.「いい歌じゃないか」「わかりもしないくせに」,「いや,声もなかなかいいぞ」「そうかなあ」,「もう一曲聴きたいな」「本当か,まぁ飲めよ」と酒をおごらされてから“森の石松”とくる.それにしても,サシミにアツカンといきたいな,日本に帰りたいな.明日は奮発して納豆御飯にしよう.

不幸な時代に生まれた
 同年配の飲み仲間が集まると,きまって話に出るのが,「俺達はプレスリーには遅く生まれすぎたし,ビートルズには早く生まれすぎた」というスーパー・スターの空白時代に生まれた話である.「何を悠長なことを言っている.俺達は食い物のない時代に生まれたのだぞ」という世代が読者諸氏の中に多勢おられ 今やこの道の大先輩として御活躍のことは深く敬意を表するものであるが,ここではその程度で御勘弁を願いたい.
 スーパー・スターの空白時代に生まれたということは実に悲しいことで,筆者にはプレスリーの星条旗のギンギラギンもおもしろいし,ビートルズの泥くささ(英国らしさ)も好きなのだが,J.S.Bachの曲に対してそうであったように,のめり込んで定期試験も受けられないほどには残念ながらなることができなかった.東京の某私立大学の法学部に(スクーリングのために)通っていた頃の友人で,後楽園のスピーカから聞こえてくるプレスリーの唄に夢中になって歩道橋からころげ落ちたのがいたが,何とも羨ましい限りである.
 TRRLのPavement Design Divisionに何人かの学生がSix Months Trainning(大まかに言えば、一種のインターンシップ)に来ているが,その中にリバプール出身の学生がいる.彼の英語は,いわゆるリバプール訛りで,筆者には“Good Morning”すらわからないことが,冗談ではなく本当にわからないことが度々ある.家に遊びに来た時に大人よりも“カン”のさえている子供の方がよくわかるという貴重な体験をしたが,英国人同志でもわからないことがあるそうだから当然といえば当然であろう.彼の名誉のために言っておかなければならないが,リバプール地方独得の言葉を毎日,聞く機会を得ているということを言いたいだけのことで,彼はTRRLの運動会で100メートル,400メートルの記録更新をし,昨年のプロ・フットボールのリバブールの快進撃よろしく,毎日,スポーツに励んでいる好青年であることをつけ加えよう.
 彼の言葉を聞いているうちに気づいたのだが,独得のイントネーション,二声に聴こえるような独得の発音から発せられる言葉は,まさに世界中の若者のハートをとらえたビートルズ・サウンズ(リバプール・サウンズ)の秘密だったのだ.またしても土に根ざした着実な英国文化の土壌を見せつけられてしまった.こうなってはリバプールに行かないではすまされない.ローマ時代の古都チェスター市の近くにあるS石油のソーントン研究所を訪ねた際にリバプールに立ち寄り,ビートルズが無名時代に唄っていたという著名なナイト・クラブ“Cabin”にくり出そうとしたが,ついに探し出すことができなかった.リバプールの住人ですら,リバプ-ルの町の中で迷うそうである.

“Six month training”でTRLで勉強していた学生達

フィッシュガードにて
 Fishguardという地名は魚を守る町だと思っていたが,逆に漁師の多い漁村であった.近くからアイルランド行きのフェリーが出航するこの南ウェールズのFishguardのMusic Festivalは昨年10回目を迎えた.かつてはEnglandと戦いを交えていたWalesはラグビィの強いことで有名であるが,ここに住むウェールズ人は親切で誇りの高い民族である.北ウェールズに比較して,工業都市が多く,近代化されている南ウェールズであるが(日本の工場も進出している),おだやかなイングランドの地形が急変する程,野性的な生活環境である.後でわかったことであるが,道路標識も英語とウェールズ語が併記されており,おおいにとまどった記憶がある.
 筆者等は,Haslemere Festivalと開催日が重なったこともあって,7月27日にFishguard SchooI Concert Hallで行なわれたSalisbury生まれの英国の中堅ピアニストHamish Milneのコンサートのみ楽しむことができたが,日本人が家族連れで来たということでFestivalのPresidentにまで紹介される程おおいに歓待され,楽しいひと時をすごしたものである.とくに,Festivalの秘書のMarion Butler女史にはHamish Milneへの紹介(サインをもらったうえ,ロンドンの彼の家へ招待された)をはじめとして,ひとかたならぬお世話をいただいた.あらためて深く謝意を表したい.

第10回フィッシュガード音楽祭のブローシュとチケット

イキな道路技術者
 Fishguardからの帰りに,かつてのWalesの首都Cardiffで一夜をすごした.Cardiff城で毎年行なわれているSearch light Tattooには数日間早すぎたが,ヤギを先頭に行進する軍の雄姿を見る機会を得た.多くの地元の人々が涙を流して声援する光景は筆者には何とも説明しがたい複雑な気持ちになった.そして,巨城Cardiff城内にあるThe Welch Regimertに入った時に観たビルマBurmaにおける日本軍との交戦の記録,戦利品として展示されている“Wood Pecker” Machine Gun(九二式重機関銃)を観た時には,さらに複雑な気持になったことは言うまでもない.若い世代はともかくも,かつて戦った世代には不幸な戦争の傷あとがいまだ消えずといった印象を受けた.しかし,Cardiff城の地下にあるローマ時代の城壁を観た後,誤って非公開の場所に入った時に軍の関係者が「気にするな」と言って笑顔をふりまくほど英国人は寛容であることをぜひつけ加えたい.

カーディフで見たヤギを先頭に行進するする軍
カーディフで見た軍の行進
カーディフで見た軍の行進

技術者冥利
 Fishguardへ向かう途中,ロンドンから高速道路M4経由で西へ113マイルの距艶にあるBristolに寄った.鋼鉄製渡洋スクリュー船Great Britain号か9年前に(127年ぶりに)生まれ故郷Bristolに帰ってきて(何と7,500海里を浮きに支えられて引かれてきたという),復旧が続けられてきたことは,あるいは御存知の方もおられるであろう.
 筆者がさらに興味をもつのは,船と同じくイギリス産業革命時代の技術者であるイザムバード・キングダム・ブルネルの設計によるエイヴォン渓谷にかかる吊橋である.1831年に着工し,1864年に完成したというから,プリユネルはこの吊橋の雄姿を見ずに死んだことになる.日本ならこのような所に橋を架けるとなると自然破壊の問題で賛否両論,ケンケンガクガクとなりそうな環境であると筆者には見えるのであるが,橋梁はその機能の重要さもさることながら景観美を構成する重要な要素であると考える英国人は多く,より仕事をしやすい環境にあるこの国の技術者を羨ましく思うのは筆者だけであろうか.
 先日,TRRLのBridge Design Divisionの幹部K.D.Raithby氏(氏は以前Pavement Design Divisionの幹部であった)と,橋梁と舗装の事について討論した際,日本の橋梁技術の優秀な点を指摘されて(筆者は門外漢ではあるが)ずい分気をよくしたが,これだけはどう仕様もない,まさに英国的とも言える橋がある.英国の大産業都市Birminghamから車で約40分のIronbridge(地名)にあるSevern川をまたぐIron Bridgeである.数か月前に竣工200年を祝った時に,日本人とドイツの技術者が両国の著名なカメラでパチパチやっていたと報道されていたが,2世紀を生きぬいてきたこの矯は英国のみならず,世界の財産となろう.腎明なる読者諸氏は,筆者が前々報で御紹介申しあげた英国土木学会(ICE)の話を思い出されたであろう.カリフォルニア大学のC.L. Monismith教授を前に,ノッチンガム大学のP.S.Pell教授が米国のGolden Gate Bridgeに対応させて紹介した英国の古ぼけた橋は,何と米国独立に遅れることわずか3年の1779年に完成した,このスパン100フィートのIron Bridgeだったのだ.世界に先がけて行なった産業革命のシンボルでもあるこの橋を見るにつけ,この英国という国,100年に一度くらいドギモをぬくようなことをやる恐ろしい国であると思う.

Iron Bridge
Iron Bridge
Iron Bridge の説明
ロンドンのRoyal Academy of Artsで開催された Iron Bridge竣工200年
産業革命(Industrial Revolution)の誕生の地である