また・フェスティバルのことなど

どうしよう?
 筆者の方向オンチは仲間うちではつとに有名(?)である.学生時代に悩んだあげく医者に相談したことがあるが,「まあ,だめだな,もう」と軽く言われてショックを受け,まっすぐ家に帰った(?)経験がある.どこにでも確実にすいすい行ける人を見ると,羨ましいどころか,尊敬の念すら抱くのである.「たかが方向オンチぐらい何だ.音痴の方が宴会では苦労するし大変だ」と言われそうだが,歌のうまいのが得意気になって歌っているのは退屈で仕様かなく,音痴の方が余程楽しい.方向オンチは本人にとっては大変なことなのである.
 限られた外貨で買った車は外車?である.英国ではストライキが多いため,国産車(英国車)が容易には手に入らないという事情があるとは言え,大衆車としての日本車には高い評価が与えられている.それにしてもびっくりしたなあ.英国で見る車の半分位は日本では滅多に見られない代物が多い.冬に塩をまくせいか,サビもひどいが,その部分を切り取って鉄板をつぎにあてる.走ればいいのである.カーステレオは珍しく,ラジオが付いていると言って自慢する.オーディオ・マニアとしては,驚きである.タンノイ,デッカ,ヴアイタボックス,クウォード等々の各種のオーディオの名品を世に出している英国においてカーステレオが付いていない車?日本人が勝手に作った高級車がいっぱいのイメージはドイツやオーストリアに当てはまってもここではどうも….
 今でも会議の場所に約束の時間までに行くには,通常の人の2倍以上の時間と運動量をかけてしまう.結構,仲間がいるもので,いっし上に某所で飲む約束をすると,きまって,その時間の数十分前にとんでもない所をうろうろしている者が多く,あらためて深刻な気特になり,なぐさめあってうろうろしているうちに結局,全員が集まってしまう,といった具合である.何のために場所を決めたかわからないことになるとはいえ,同じような時間に集まってしまうのであるから,何かしら規則性をもっているものらしい.いずれにしてもガソリンと時間の無駄であり,省エネルギー対策の一つとして,是非,国家的規模で方向オンチの矯正に関する研究を願いしたいものである. こんな筆者が右も左もわからない英国で事を運転できるのであろうか?マカダム(John Loudon McAdam)やテルフォード(Thomas Telford)が活躍し,近代舗装の先駐をなした国,エディンバラ獣医大学卒業の獣医師で空気タイヤを究明したジョン・ボイド・ダンロップ(John Boyd Dunlop)を生んだ国,ロールスロイスやジャガー(ジャグエル)の名車で知られる国,大丈夫かなあ,どうしよう.

名車を買う
 物を大事にする習慣は徹底している.普段は高価なものを着ていることはなく,学生がヒザにつぎのあたってい るズボンをはいているのを見かけることがある.日本の大学でもつぎのあたっているズボンを学生がはいているのを見つけ感心したところ,おおまちがい.ファッションだそうだ.
 TRRLに行き初めた頃,日本では滅多に着ない背広を毎日着て行ったところ「どうしたんだ」,「何が起こったんだ」と冷やかされて当惑したことがあるが,幹部クラスでも特別の日でない限り,ヒザの出たズボンをはいている.お客さんが来る時は違う.まさに英国紳士にヘンシーン.セビル・ローに行って仕立てたかどうかはわからないが,見違えてしまう.長さが違うんだなあ,脚の.

ラックラク
 よく言われているように英国の道路表示はうまくできている.問題の方向オンチだろうが,英語さえ読むことができれば誰でも初めての場所でもかならず目的地に到着することができる.ラックラクである.ラゥンドアバウト(ロータリー)にさえ馴れてしまえば,日本より運転し易いし,「速く安全に走る」という車本来の機能,道路本来の機能を満喫できる点は,いかにも英国らしい.
 運転で筆者がとまどったのはウェールズ地方とローマ時代にできた町の中だけである.ウェールズでは道路表示に地名が2つ書いてあって,1つは道路地図に載っているのだが,もう1つはどうしてもわからないし,どうも英語的ではない.あとでTRRLの連中に聞いたところ,下に書いてあるのはウェールズ語だそうだ.複雑なお国柄の一例である.TRRLに勤務するあるウェーリッシュは,「私にとっても英語は第2外国語」だと言って,私の英語をなぐさめてくれる人もいる.
 北ウェールズで著名なカナーボン城は英国皇太子の立太子式が行なわれるところであり,皇太子をPrince of Walesの称号で呼ぶことから御存知の方も多いことと思うが,何とも言いがたい哀愁を感ずる城だ.途中にあるスノードンの登山鉄道や近くにあるメナイ橋(Menai Bridge)については是非,御一見をお奨めしたい.後者は,トーマス・テルフォードによってバンゴールとアングルシー島の間のメナイ海峡に19世紀に架設された吊り橋である.テルフォードは,大学の授業の道路工学などの教科書に載っているほど著名な土木技術者である.

メナイ
メナイ橋 のアップ

カンニング
 子供達がネッシーに是非,御挨拶をということでスコットランドのネス湖に出かける.ネッシーのサインをもらうべくノートを用意して待ったが,当日は御機嫌斜めらしい.絵ハガキで観る愛嬌のある顔をしたネッシーはついに顔を見せてくれない.これは英国人のカンニングだ.ネッシー伝説が存在しなければ,わざわざ,こんな山奥まで来る人がいないのではないかと思えるほど,ただの湖(ロッホ)である.崩壊したウルクハート城があるなどお膳立てがあっても洗練された東洋人の感覚からすると神秘的とはどうしても思えない.やはりカンニングだ.英国人のしたたかな政治力,政治手腕に身の毛がよだつ程の不気味さと畏敬の念を新たにするのである.

ネス湖の一部
ネス湖湖畔に建つウルクハート城

エジンバラ
 スコットランドはタータンチェック,スコッチウィスキーなどで日本にもお馴染みだ.サクソン人との長い抗争の名残が今でもあり,メイド・イン・スコットランドのマーク,スコットランド銀行の紙幣(ロンドンで受け入れてくれないことがあった)が今もって通用する.
 かつてのスコットランドの首都エジンバラは悲劇の女王メアリー・スチュアートを迎えたエジンバラ城,セントジェームス・カシードラル,エリザベス女王の居城ホーリィ・ルートハウス,セント・マーガレット・チャペルなど美しく歴史を感じさせる建物が多い.

ホーリィ・ルート・ハウス宮殿

 ここエジンバラで行なわれるエジンバラ・インターナショナル・フェスティバルは英国最大のそれであると同時に世界的に著名であり,世界各国から多くの人出を呼ぶ.
 今年(1979年)のフェスティバルは8月19日から9月8日までの約3週間にわたって行なわれたが,4月未に開始されるチケットのブックはきわめてむずかしい.フェスティバルはオペラ(King’s Theatre),バレエ(The Tent),人気のあるソリストおよび交響曲(Usher Hall),室内楽(The Queen’s Hall, Freemason’s Hall),芝居(Assembly Hall),ミリタリー・タットゥ(The Castle)などがその出し物の主なもので,ロンドン以外では滅多にお目にかかれない,マニアにとっては垂涎の的のプレィヤーが出演する.また,出演者にとっては,このフェスティバルは超一流への登竜門でもある.
 フリンジ・フェステイパルも同時に行なわれ,芝居,展,絵画展,ジャズ,フォーク,子供用の人形劇,音楽会,サーカス,パントマイム等々と枚挙に暇がない.
 各種の文化・芸術の施設関係でも協賛の催し物が行われ,ドガ展を行なっていた国立美術館,フィンランドの黄金時代の芸術(絵,彫刻,家具他)を披露していた王立スコットランド博物館,ロイヤル・スコッテイッシュ・アカデミーと好きな人にはこたえられない夢のような3週間である. 筆者らは1週間の滞在で5つの音楽会,子供用の人形劇,芝居,ミリタリー・タットゥ,および各種の施設,スコッチを楽しんだが,いや,楽しいの何のって…,すみません.

エジンバラ・インターナショナル・フェスティバルのプログラム

言いたくないんだが
 8月24日8時からUsher Ha11で行なわれたクラウディオ・アバド(Claudio Abbado)指揮のLSO(London Symphony Orcbestra)とマウリッツオ・ポリーニ(Maurizio Pollini)のコンサートに出かけた.LSOはすでにロンドンで聴き込んでいるオーケストラであり,指揮者によってこれ程変わるオーケストラも珍しいのではないかと思えるぐらい,一言で言うと,うまいオーケストラだと思う.アバドは9月30日にロイヤル・フェスティバル・ホール(Royal Festival Hall)において,LSO首席指揮者就任披露コンサートでクリスチャン・ジメルマン(Krystian Zimerman)とブラームスのピアノ協奏曲第1番を熱演しており,イタリアのラ・スカラ(Teatro alla Scala)の芸術監督の辞任公表問題とも絡んでロンドン楽界をわかしている.
 ポリーニは相も変わらず独得の美しい音色を出しており,家内が現在,ジメルマンと並んで最も凝っているピアニストだ.ショパンのF minorのピアノ協奏曲にうっとりと聴き入っているのを見ると,軽い嫉妬すら覚える.イタリア人のもつ深い情感と繊細な表現はナポリやソレントで観た美しい風土が醸成したものなのか,フィレンツェで堪能した芸術の伝統が身についているものなのか,長い歴史のなせるわざか,少なくともトレビの泉の前やスペイン階段付近のような観光客向けの場所で代表されるような喧嘩,猥雑さとはどうも結び付かない.芸術とは経済力のピ-クがすぎ,半世紀,一世紀程遅れて成熟するものなのか,現実の生活感覚とは同一面上で把えられないものなのか.
 アルフレッド・ドニ・コルトー(Alfred Denis Cortot),エドウィン・フィッシャー(Edwin Fischer)は一部の好事家の記憶に残るだけとなり,ウィルヘルム・バッククハウス(Wilhelm Backhaus)が他界し,ウラディミール・ホロヴィッツ(Vladimir Horowitz)が神格化されている現在,第3世代の代表格であるアルフレッド・ブレンデル(Alfred Brendel)のヴィルトゥオーゾ的演奏とも異なるこのポリーニの演奏は,グレン・グールド,ジメルマン,エリザぺ-ト・レオンスカヤ等と並んで,いや,忙しくなりそうだ.
 なお,日本の某音楽番組(ラジオ)でジメルマンの演奏を取り上げた某評論家が,「来年(1980)の演奏活勤が楽しみだというようなことを言っていたが,ジメルマンは9月30日のLSOとの演奏会で,「来年は公式の演奏活動をやめて母国ポーランドで勉強する」旨をプログラムで表明していたのだ.言いたくはないんだが….

英国紳士
 2曲目はチャイコスキーの交響曲第4番Fminor,LSOの得意とする曲だ.安いせいもあって檀上にすわる席(何と言うのかなあ),つまり演奏陣と同様に聴衆の方をみて演奏を楽しむ席がある.子供達に「あの人達は歌を唄うの」と質問され困惑する席だ.第2楽章の時にふと気が付いたのだが,最前列にいた女性がコックリ,コックリ居眠りを始めたのだ.隣の人にぶつかりそうになってはあわてて姿勢を正すのだが,睡魔には勝てない.前に落ちたら大変だ.もう演奏会どころではない.オペラ・グラスが忙しい.隣りに座っていた英国紳士(?)は顔色ひとつ変えず,背筋を伸ばした姿勢でまっすぐ前を向きつつ,その女性を支え始めた.行儀と趣味の悪さを恥じつつ,まわりが家族だった安心感もあってスケッチしたが,飾りつけてあった大きな木の下に件の女性が見えるので,会場の熱気も手伝ってか,木かげで女性が音楽に陶酔しているように錯覚する.最高だ.
 演奏が終ったところで柏手,拍手,拍手.かの英国紳士は左腕でその御婦人を支えつつ,平然と拍手をしている.帰りぎわ,現実に戻ったのか,その女性,しきりに紳士にお礼を言っているようだ.夫婦ではなかったらしい.典型的英国紳士を見たような気がした.親切さも表に出さず,平然としているその態度に感激と満足を覚え,ホテルに帰って口にしたティもひときわうまかった.

英国人は正直者
 8月26日,タマーシュ・バシャーリ,スコッチイッシュ室内楽団がピーター・フランケルと組んでモーツァルトのK.365を演奏した.黒のタキシードに身を包んだ舞台係がもう一台のピアノを運ぼうとしたが,なかなか動かない.これからが肝心だ.多分,多分,読者諸氏は英国人は黙ってピアノの移動を待つとお思いでしょうが,多分,…,多分again,違うんですなあ,かけ声が入るんですよ.蔵前国技館の弓取り式より大きなかけ声が入るんですよ.それでも動かない.見るに見かねたのか,奥の方から作業服を着た人たちが出てきた.思わず聴衆がふき出す.口笛と,会場がわれんばかりのひやかしと柏手だ.やっとピアノの設定を終えて,その男性,ソリストのようなスタイルで深々と聴衆に頭を下げた.たいしたもんだ.筆者の育った田舎では,昔,お祭の時に演芸会なるものがあり,田舎のスターが礼をするように,とても洗練されたスタイルとは言えないが,得意満面とする愛嬌にはほほえましい素朴さとユーモアを感ずる.おかしい時は笑う.堂々と笑い,すましてなんかいない.これが英国人だ.と思うのは筆者だけであろうか.そのかわり,前日のポリーニとLSOの時の英国紳士のように,必要な時には寛容と忍耐の態度を示し,それが今もって美徳だ.またまた,うまいティを飲んだ.実を言うと,ちょっと気張ってワインだったのですが.

また,ポリーニ
 明日は1980年の元旦だ.日の丸の国旗にゆっくりとアイロンをかける.これだけは家内にもさせられない.ユニオン・シャックを半旗にした暗い事件が忘れられない.ポリーニのソロ・コンサートの日であったから1979年8月27日だ.演奏の前にフェスティバルの幹部からロイヤル・ファミリーのマウントバッテン伯がIRAのテロによって殺害されたとの報告があった.長い黙とうの後,演奏に入ったが,シューベルトの暗い,歌う部分がより沈んで感じたのは事件のせいだろうか.いつもそうだが,神経質で全霊を傾けるようなポリーニの演奏の後は本人が憔悴したように見え,かわいそうになってしまう.頭が痛い.今日は子供達のチョコレートを失敬する.

ミリタリー・タットウ
 エジンバラ・インターナショナル・フェスティバルで最大の人出を呼ぶミリタリー・タットゥはエジンバラ城の中で行なわれる.この時ばかりはイングランド,ウェ―ルズ,ノース・アイルランド,スコットランドの呼び名が堂々と通り,軍のデモンストレーションが威儀を正しつつも華々しく行なわれる,大英帝国時代の仲間,カナダ,オーストラリアの人々も多く参席し,それぞれの国名が呼ばれると覇を競うような大声援が観客席から飛ぶ.USAの声も一段と高い.残念ながら,わが日本国は….1902年でないことが残念だ.
 エジンバラ市と姉妹都市であるミュンへン(西独)からも踊りが披露され,まさに祭りの真っ最中だ.華麗にして優美な近衛兵,かつてハイジャック対策として西独の精鋭を訓練したという精惇なレンジャー部隊,照明技術,また,そのものがまさに芸術である(と筆者には思える)火,吹奏楽団,いやが上にも雰囲気を高め,子供達にとっても人形劇やパントマイム以上に興奮を覚えるらしい.城の上に立てられたユニオン・ジャックは夜目にも美しい.
 島国ながら民族間,国家間で幾多の争いをし,微妙なバランスの上に団結している英国という国は経済力は別として,いまだ世界のリーダーであることは疑う余地がない.日本の地図でみると西端に位置する英国だが,自由主義社会のリーダーである米国 (ヨーロッパに行くと,つくづくそう思う) とヨーロッパの中間に位置する地理的条件も手伝って,時には米国の国際感覚のズレをいましめ,他国とのパイプ役を果す姿勢には,やはり,したたかな大人の国,英国を感じさせる.
 わが日本国がアジアと米国の中間に位置する地理的条件が認識され,経済面ばかりでなく,他国の国民の中にしっかりと日本国を認識させる日は,とくに,文化,芸術面がきわめて有効であるはずだが,いつであろうか.あと,30分で1980年だ.お正月の用意もできた.日本国のわが家はやはりいい.使い果してスッカラカンだが,わがオヤジ殿も田舎から来ている.大丈夫だ.ティナャーズもある.いらっしゃいませんか.

ミリタリー・タットゥの一場面
ミリタリー・タットゥの一場面
ミリタリー・タットゥの一場面
ミリタリー・タットゥの一場面